- 2026年10月16日
「内神田〇丁目」じゃ味気ない――ナビが進化した今、私たちが「昭和」や古い地名を愛してしまう理由
江戸の埋め立てから日本橋、そして消えゆく町名まで。「効率」と「愛着」の物語
院長より皆さんへ
先日、東京の歴史について調べる機会がありました。今から400年以上前、徳川家康が豊臣秀吉の命で江戸にやってきた当時、なんと今の皇居(江戸城)の目の前まで海が迫っていたそうです。
家康はそこから、親子3代・50年をかけて海を埋め立て、大洪水を防ぐために川の流れを丸ごと変えるという、日本史上最大の国家ビッグプロジェクトを成し遂げました。いま私たちが歩いている丸の内や日比谷のビル群は、そんな気の遠くなるような苦労の上に成り立つ人工の土地です。
しかし、この街づくりの歴史を調べるうちに、現代の私たちがいつの間にか置き去りにしてしまった「大切なもの」に気づかされました。それは、お役所が求める「効率」と、人間が持つ「愛着」の物語です。
毎日のように通る道でも、名前の由来を知ると、同じ景色がまったく違って見えてきます。目で見る街の風景は、実は「記憶」の上に成り立っているのだと思います。
政治の都と、商いの都――日本橋は「すべての真ん中」だった
江戸の街づくりの話を、もう一つだけ。
政治の中心が「江戸城(皇居)」なら、経済・物流・文化のすべての中心は「日本橋」でした。現代でいえば、東京駅と銀座と丸の内と豊洲をすべて合体させたような、とてつもないエネルギーを持った「本当の真ん中」だったのです。
橋が架けられたのは慶長8年(1603年)。翌年には東海道をはじめとする五街道の起点と定められました。いまも橋の車道の真ん中に「日本国道路元標」というプレートが埋め込まれていて、国道1号・4号・6号・14号・15号・17号・20号――全国7本の国道の距離は、この橋をゼロ地点として数えられているのです。
そして、この橋のたもとには面白い裏話があります。
そもそもの始まりは、家康がまだ天下人ではなかった頃、摂津(今の大阪)の小さな漁村・佃村の漁師たちと結んだ「縁」でした。獲った魚を幕府に献上する役目を負い、その余った魚を橋のたもとの板舟に並べて売り始めたものが、あの有名な「魚河岸」です。この家康と大阪漁師たちの物語には、島ができ、神社ができ、そして昭和まで続く長い長い「その後」があります。
橋のたもとに生まれた魚市場はやがて日本一のにぎわいとなり、東京の「食」の中心として築地を経て、現在の豊洲市場にまで脈々と続いています。豊洲市場のルーツをたどると、400年前の一本の橋のたもとにたどり着くのです。
食の話をもう一つだけ。江戸時代の大坂は、全国の大名が蔵屋敷を構えて年貢米や特産品を集めて売る「天下の台所」と呼ばれていました。最盛期には100を超える蔵屋敷が建ち並び、そこに集められた米や酒、醤油などの品々は「下りもの」として海路を経て、江戸の食卓にも届けられていました。そう考えてみれば、江戸の食卓の両輪――米も、魚も――は、どちらも大坂と縁の深いものだったのです。漁師たちが開いた魚河岸と、天下の台所から流れ込む「下りもの」。江戸っ子は、名も知らぬ大阪に支えられていた、と言えるかもしれません。
ちなみに、いま私たちが「日本橋」として目にする石造りのアーチ橋は明治44年(1911年)に完成したもので、橋灯の上に立つ麒麟の像は、羽を広げて「日本の中心から各地へ飛び立つ」という意味を込められているそうで、国の重要文化財に指定されています。
【深掘り】家康と大阪漁師たち――「恩」が、海の上の島になった
日本橋の話を少しだけ途切れさせて、ここで語りたい物語があります。家康と、大阪の漁師たち――佃島と住吉神社をめぐる「恩の連鎖」です。
まず、あの有名な出会いから。天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は堺にいて、命からがら領国へ逃げ帰ろうとしました。ところが、摂津・神崎川の渡しに舟がない。一行が立ち往生していたところ、川のほとりの漁村・佃村(今の大阪市西淀川区)の名主、森孫右衛門が舟を出して助けた――というのが、この物語の始まりと語り継がれています。(実は「上洛の途中の渡しを助けた」という、もう少し穏やかな記録もあって、どちらが本当かは決着がついていません。地名の話と同じで、伝説と記録が何層にも重なっているのです。)
そして8年後の天正18年(1590年)、家康が豊臣秀吉から関八州を任されて江戸へ移るとき、この孫右衛門を筆頭に34人の漁師たちが舟に乗り込んで、海路・江戸入りしました。彼らが江戸の海での漁を許される代わりに負ったのが、将軍の御膳に供する魚「御菜魚」の献上です。なかでも大切にされたのが白魚。夜、川面に提灯をともして獲った白魚が献上箱に収められ、江戸城へ運ばれていきました。献上に使われた「白魚献上箱」は、なんと実物が今も中央区の文化財として残っています。
物語の山場は、それから半世紀余りが過ぎた正保元年(1644年)です。幕府から鉄砲洲沖の干潟、百間四方(約180メートル四方)を拝領した漁師たちは、周囲を石垣で囲み、自分たちの手で海を埋め立てました。完成した島は、故郷の村の名をとって「佃島」と名付けられます。
そう、佃島は**“人工の島”**なのです。冒頭に書いた「海を埋めて土地を造る」という家康の国家プロジェクトを、その恩を受けた漁師たちが、今度は自分の手と技術で成し遂げた。恩に報いる形として、これ以上うまい話を私は知りません。
2年後の正保3年(1646年)には、故郷の鎮守・住吉神社(現・田蓑神社)から住吉三神と神功皇后を勧請し、島に社が造営されました。いまも佃一丁目にある住吉神社です。海を渡る人を守る神様に加えて、なんと恩ある主君・徳川家康の御神霊まで合わせて祀られています。海のない新天地へ流れてきた漁師たちが、故郷の神様と助けてくれた主君を、ひとつの社に祀った――この物語、私は好きでなりません。
離れ小島の暮らしは簡単ではありませんでした。時化(しけ)で食料が途絶えることもあったといい、献上品の余った魚を塩で煮て保存食にしたのが「佃煮」の始まりだとされるのも、この島です。
そして、この物語には驚くような「その後」まであります。島と対岸の鉄砲洲を結ぶ「佃の渡し」は、江戸時代から300年近くも人々を運び続けました。最盛期には1日70往復に上ったといわれる渡しが営業を終えたのは――昭和39年(1964年)8月27日、東京オリンピックの年でした。佃大橋の完成と入れ替わりに渡しは姿を消し、周囲の埋め立てが進んで、佃島は「島」ではなくなります。
効率を求めて橋がかかり、渡しが消えた。それでも、島の名前と住吉神社、川沿いに立つ渡船場跡の碑は、今もそこにあります。これもまた「効率と愛着」の物語の、もう一つの現場なのです。
地形が変わり、名前が変わる。歴史のレイヤー
東京の地名の面白いところは、家康たちの「大工事」の痕跡が、今も名前にそのまま残っている点です。
例えば、いまもおしゃれな学生街やオフィス街として知られる「駿河台(御茶ノ水付近)」。あそこはもともと、家康が江戸に来た当時は「神田山」と呼ばれる大きな丘でした。家康は、目の前に広がる日比谷の海を埋め立てる土を確保するために、この神田山を大規模に切り崩したのです。土を削り取られた結果、そこには人工的な新しい「高台」が誕生しました。
その後、家康が駿府城(静岡)で亡くなると、それまで駿河で家康に仕えていた武士たち(駿河衆)がぞろぞろと江戸へ呼び戻され、幕府によってこの新しくできた高台に住まわされました。
「神田山」という自然の山が切り崩され、そこに「駿河」から来た人たちが住んだことで、街の名前が「駿河台」になった。千代田区の町名由来板によれば、この高台から駿河国の富士山が望めたことも、名前の由来のひとつとされています。
私たちが何気なく呼んでいる地名の一文字一文字には、そうしたダイナミックな地形の変化と、人々の移動の記憶がミルフィーユのように積み重なっています。
行政が求めた「効率」と、消えゆく歴史ある地名
神田の駅周辺を歩くと、いまも「神田紺屋町(こんやちょう)」という名前が残っています。かつて家康が江戸を開いた際、全国から集められた藍染め職人たちのギルドがあった場所です。
しかし、かつてその隣にあったはずの「竪大工町(たてだいくちょう)」という名前は、現在の地図にはありません。この町、一度では消えなかったのです。
| 時期 | 町名の変遷 |
|---|---|
| 昭和8年(1933年) | 区画整理で隣の新石町と合わさり「多町(たちょう)一丁目」に統合 |
| 昭和37年(1962年) | 「住居表示」の法律が制定(東京オリンピック前後の都心整備で各地が実施) |
| 昭和41年(1966年) | **「内神田三丁目」**という、分かりやすい記号のような名前に |
歴史ある名前は、一度の改革では消えず、層を重ねるようにゆっくりと消えていく。これもまた「歴史のレイヤー」の一角です。
同じような「効率化」は、学校名にも起きています。かつては地域の歴史や愛着のある名前がつけられていた学校が、高度経済成長期に「〇〇第1小学校」「第2中学校」といった数字の記号に変えられていきました。子供の爆発的な増加に合わせ、行政が「手っ取り早く、苦情が出ないよう平等に管理するため」に量産した結果でした。
当時の「効率の限界」を考えれば、住所や学校名を数字で管理することは仕方のないことだったのかもしれません。でも、どこか味気なさを感じてしまうのは、私だけでしょうか。
そして、東京オリンピックを機にした“効率化”は、名前だけを変えたのではありません。大会を控えた道路整備の波は、あの日本橋の頭上にも及びました。昭和30年代後半、五街道の起点であり魚河岸の橋でもある日本橋の上に、首都高速道路が架けられたのです。「交通の効率」という大義のもとに、400年近く続いてきた橋の上の空が奪われたのは、町名が「内神田〇丁目」に置き換わっていった、ちょうどあの同じ頃でした。
「昭和の時代はさぁ」を西暦で言うギャグ
この「効率」と「愛着」の対立は、私たちが普段使っている「暦(こよみ)」の関係にもそっくりそのまま当てはまります。
書類を手続きするとき、あるいはデジタルシステムを管理する上では、世界共通の「西暦」の方が圧倒的に便利で間違いがありません。お役所仕事的には、西暦だけで統一した方がスマートでしょう。
ですが、もし私たちが普段の会話で、
「1926年から1989年の時代はさぁ……」
なんて話し始めたら、それこそギャグですよね。私たちは「昭和の時代はさぁ」と言うからいいのです。
「昭和」というたった二文字を口にするだけで、白黒からカラーへと変わっていくテレビの熱気、汗水たらして働いた高度経済成長期の活気、泥臭くも温かかった人情やノスタルジーといった膨大なイメージと共通の記憶が、理屈抜きで一瞬にして相手と共有できるからです。西暦の数字はただのデータですが、和暦(元号)は、その時代を生きた人たちの体温やストーリーを保存するタイムカプセルなのだと思います。
テクノロジーの進化が、かつての「効率化」を過去にする
ここで一つ、皮肉な、けれど希望に満ちた事実に気づかされます。
お役所が「内神田〇丁目」や「第1、第2」という記号を私たちに強いた大義名分は、「そうしないと迷子になるから」という当時の技術の限界でした。地図を広げて家を探さなければならなかった時代には、それも正論だったはずです。
ですが、スマホのGPSやカーナビがミリ単位で現在地を教えてくれる現代、私たちはもう住所の文字だけに頼って場所を探していません。住所や番地なんて知らなくても、スマホでイベント会場の「ピン」をLINEで送るだけで、誰でも迷うことなく目的地にたどり着けます。
つまり、テクノロジーが極限まで進化した今、ひと昔前にあの大騒ぎをして進めた「記号のような住所への効率化」は、もう必要なくなっているのです。
日本橋でも、同じ転換が進んでいます。首都高の日本橋区間を地下に移し、橋の上の空を取り戻す計画(日本橋上空計画)です。地下トンネルの完成は2035年度、高架橋の撤去完了は2040年度が予定されていて、「青空の見える日本橋」が戻ってきます。地名の復活も、空の復活も、どちらも「効率の限界」が過去になった今だからこそ、選べる未来なのです。
効率だけで割り切れないものにこそ、本当の価値がある
行政が「効率」を求めて消そうとした神田の地名ですが、消されずに済んだ地域もあります。住居表示はあくまで住民の合意が前提の制度です。「先祖代々の誇りを消されてたまるか!」という住民たちの猛反対が実を結んで実施が見送られた結果、旧来の町名のまま今日まで生き残ったのです。神田駅前に残る「神田鍛冶町三丁目」はその代表格で、紺屋町や神保町のように「神田」の冠を保った町名が、今も神田一帯に点在しています。
さらに近年では、一度消された「神田」の冠を、住民の長年の運動によって約50年ぶりによみがえらせた地域もあります。
| 町名 | 冠を外されていた期間 | 「神田」復活 |
|---|---|---|
| 神田三崎町 | 51年 | 平成30年(2018年)元日 |
| 神田猿楽町 | 49年 | 平成30年(2018年)元日 |
三崎町が冠を外されてから51年、猿楽町が49年――どちらも「約50年」になる平成30年(2018年)の元日から、ふたたび「神田」を名乗っています。
地名の復活が進む一方で、日本橋の空も戻ろうとしている。技術が人間の「愛着」を奪った時代を経て、今度は技術の進化が「古い地名や歴史をそのまま残しても、何の問題もない社会」を可能にしてくれた。だとしたら、これからは効率のために何かを諦めるのではなく、私たちが本当に残したい「街への愛着」や「歴史のストーリー」を、もっとわがままに守り、復活させていってもいいのではないでしょうか。
最後に
今度、神田駅の西口(旧・竪大工町界隈)へ行く機会があれば、スマホの便利なナビで現代のルートを案内してもらいながら、足元に眠る江戸や昭和の「名前の記憶」に耳を傾けてみようと思います。そして、すべての道の起点である日本橋にも足を運び、高架が消えて麒麟の像の上に空が戻る2040年の街を、思い浮かべてみようと思います。
効率は、私たちの暮らしを確かに便利にしてきました。けれど、その効率が行き着いた先で、今度は「残したいもの」を選び直せる時代になった。名前の一つひとつに込められた物語を大切にしながら、これからの街と、そこに暮らす人たちの「見え方」を考えていきたいと思います。
出典・参考
- 千代田区「町名由来板:駿河台(西)」https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/volunteer/chomeiyuraiban/choumei/surugadai-nishi.html
- 千代田区「町名由来板:多町一丁目(竪大工町・新石町)」https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/volunteer/chomeiyuraiban/choumei/ta-1.html
- 千代田区「住居表示実施地区と未実施地区一覧」https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/machizukuri/tochi/jukyohyoji/jisshi.html
- 千代田区「三崎町・猿楽町の町名変更」https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/machizukuri/tochi/jukyohyoji/chome-henko.html
- キッコーマン「日本橋魚河岸の来歴 第1回 魚河岸ができるまで」https://www.kikkoman.com/jp/kiifc/publication/foodculture/no14_fish1.html
- 住吉神社(佃)オフィシャルサイト「由緒」https://www.sumiyoshijinja.or.jp/about.html
- 中央区「佃島旧名主森家及び関係資料」https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/toshobunkazai/tyuuoukuminnbunnkazai107.html
- 中央区「白魚献上箱」https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/bunkakankou/rekishi/bunkazai/kuminbunkazai/shirauokenjyobako.html
- 中央区「佃島渡船場跡」https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/bunkakankou/rekishi/bunkazai/kuminbunkazai/tsukudajimatosenbaato.html
- NHKアーカイブス「8月27日 隅田川の渡し舟が営業を終了した日」https://www.nhk.or.jp/archives/jidai/special/today/0827/
- 中央区観光協会「日本橋魚河岸跡」https://www.chuo-kanko.or.jp/pages/other_details/119497
- 中央区観光協会「日本橋・日本国道路元標」https://www.chuo-kanko.or.jp/pages/other_details/119502
- 大阪市立図書館「中世・近世の大坂」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/page/1146.html
- 首都高「首都高速道路日本橋区間地下化事業 事業の概要」https://www.shutoko.jp/ss/nihonbashi-tikaka/overview/
- 東京都「日本橋の麒麟像」https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu-archives/07edo_tokyo/0717nihonbashi
- 日本経済新聞「東京五輪が消した町 原宿・御徒町・田町・汐留…」https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK18039_Z10C13A9000000/
- Yahoo!ニュース「“神田”愛が実った……64年五輪で消えた神田の冠称、千代田区…」https://news.yahoo.co.jp/articles/4a75853e1f9ecd875e765593eaa7235d46034cbf
院長 大野眼科クリニック
